ふんわり優しい暮らし

少しずつ心を解放しています。

整体で不安を過剰に我慢する心の癖に気がついた。

心を癒して
自分らしさを取り戻していくプロセスの中で

一般的にマイナスとして扱われる感情を
感じることに許可をするプロセスは
とても大切だなと感じています。

数年前に、
ずっと無意識に禁止にしていた
「さみしい」という感情を
久しぶりに口にしたら

さみしさくて孤独を感じているのに
同時に素直に気持ちを表現できた
安心感に包まれるという
不思議な感覚を味わって

「さみしい」ってただの感情なのかと
「さみしい」ってただ感じるだけで
こんなに楽で心地よくなるのかと驚いて

それ以来「さみしい」と感じることに
恐れがなくなりました。

嫌いとか、不快とか、
なんか嫌だとか・・・
「さみしさ」を受容したときに感じた
安心感がやみつきになって
私は蓋をしてきたたくさんの感情を
許可していきました。
そのプロセスの中で
それまでずっと依存していた
人間関係を断ち、転職し、
ずいぶんと自由に生きられるようになりました。

いいことなのか、悪いことなのかは
わかりませんが
悩みが減ったので、考え込むことも減って
ブログの更新も減りました。

マイナス感情の扱いは
もうだいたい出来るようになったし
まあこんなものかと思っていました。

心の歪みもだいたい整ってきたし
次は体にアプローチしようと思って
最近通い始めた整体でふと気がつきました。

自分の体の状態を客観的に教えていただき
体の痛みや不調に向き合う中で

そういえばその歪みは
小学生の頃からあったな、とか
中学生の頃から体がかたかったし
体は痩せてるのになぜか
下腹だけ異様に出てたよな、とか
子供の頃を思い出す機会が増えました。

私は普通の子供より
不安感を感じやすかったし
集団行動も苦手だったし
なぜか悪目立ちするし
よく困ったことが起きました。

でも周りからしたら、大人からしたら
大したことじゃなかったりして
話を聞いてもらえず
助けてもらえず
助けてとも言えず。

私は誰かに助けてもらうことをあきらめて
歯をくいしばってふんばりつづけて
不安感や恐怖をぐっとこらえて押し込んで
誰にも邪魔されないようにと
強くなろうとしたことを思い出しました。

心の痛みがあまり強くて
体の痛みまで感じられなくて
痛みとして自覚するようになったのは今だけど
私の体が不調だったのはきっと
子供の頃からなのだと思います。

心で受け止めきれなかった
「不安感」や「恐れ」を、
ぐっとこらえて体に
溜め込み続けているのかもしれません。

今まで自分の体にあまり興味がなかったけれど
そのことに気がついてから
自分の体の痛みが愛おしく感じて
痛みを丁寧に取り除いてあげたいと
思えてきました。

そこまで感じてようやく気がつきました。

自覚はなかったけれど、
私は子供の頃から、そして今もずっと
「不安感」を押し込む癖がありました。

不安を消すために、必死に頑張り、行動し、
頭を使い、気を遣い、誰かの犠牲になり、
体を壊しそうになるまで働いてしまうことが
よくわかりました。

不安の扱いって、とても難しいなと思います。
先日もある人から
一方的に不安の感情をぶつけられて
抱えきれないほどの重荷を感じ、
心が混乱したことがありました。

不安感を感じることは大切だけど
扱いには慎重さが必要なのかもしれません。

新しいことに挑戦するときには
不安はつきものだし

不安を感じられるから危険から
身を守ることもできるし

不安そのものは何も悪くはなくて

不安とのつきあい方は
その人の生き方そのものだなと思います。

今まで不安を押し込むことしか
してこなかったので
それ以外の関わりかたがわかりませんが、

そもそも不安を感じながらも
楽しく前向きに前に進んでいく感覚が
今は想像もつきませんが

今まで扱ってきた他の感情と同じように
ただ不安な気持ちを感じきることから
始めてみます。

ami