ふんわり優しい暮らし

少しずつ心を解放しています。

捨ててみて初めてわかる

断捨離はブームの初期のころに飛び付いて
こんまりブームにのっかって
ミニマリストにもどっぷりはまって
テレビもソファもベッドもすてた。
仕事も人間関係も変わった。
どっぷりお片付けブームにのっかった。

だから部屋にあるものは
一度手放したあとに
迎え入れたものばかり。

色も形も素材も
ほとんどのものは気に入っているし
自分の感性から大きく外れたものは少ない。
どれも、悪くない。
むしろ好きだ。

でもなにかを感じて
思いきって捨ててみて
あれ、ノイズだったのかーと
気がつくことが多い。

気がつかないうちに自分自身が
日々変化しているんだなーと
実感した。

ノイズにあふれていた頃には
気がつかなかった
小さな小さな変化と今、
向き合っている。

ami

罪悪感は妄想だった

私がなかなか
自由に生きられなかったのは

罪をつぐなって
許してもらおうと
必死になっていたからでした。

横柄な人
エネルギーを奪う人の近くに身を置いて
苦しい思いをして
たくさん傷ついて
その人達の言うことを聞いて
許してもらおうとしていました。

じゃあその罪って何?
何を許してもらうの?
誰に許してもらうの?

って自分に聞いてみると
よくわからなくて

ああ、はじめから罪なんてなくて
許してもらわなくてもよかったのかと
気がつきました。

罪をつぐなって許してもらうために
自由を奪う人に、環境に、
依存していました。

もう長年の習慣なので
気がつくと自分を痛めつけてくれる
人に環境に吸い寄せられますが

その度に気がついて
そっちじゃないよ、
罪はなかったんだよ、
あなたの勘違いだったんだよ、
だからもう許してもらわなくていいのよと
自分に言い聞かせることにしました。

ami

無意識に求めていた"わかってほしい"

自覚のない強い欲求って
あるものなんですね。

私は心の奥底に
"わかってほしい"を
しまいこんでいることに
気がつきました。


思考が深くて
口が達者な子供だった私。

ぼんやりとした記憶ですが
思ったことを素直に口にしても
わかってもらえなかったことが
多かったように記憶しています。

わかってもらえなくて
悲しくて孤独で
それがあまりに頻繁だったので
いつの間にかわかってもらえないことが
当たり前になり
わかってもらえなくても
何も感情が動かなくなっていたようです。

自分のなかに
"わかってもらいたい"欲求があることに
きがついていませんでした。


ところが
自分と同じか、自分以上に思考が深くて
"わかってくれそうな人"が目の前にあらわれて、

なんだこの安心感は・・・
と、驚きました。

わかってくれる人がいるありがたみや
遠慮しないで言葉にできる喜びを感じて

そうか私は今までずっと孤独だったのか
誰かに自分をわかってもらうことを
諦めていたのかと
自覚できました。

世界のどこかに私をわかってくれる人がいる。
私と同じように
わかってもらうことを諦めて
孤独に気がついていない人も
いるかもしれない。

世界のどこかに
仲間がいることに気がついて
肩の荷がぐっと落ちました。
子供の頃からずっと
無意識に力が入っていたんだなーと
思いました。


おもしろいなーと思ったのは
私は仕事に依存しがちな
傾向があって
特に直属の上司の言葉に
傷つくことが多かったのですが
わかってくれる人に出会って
わかってほしかった自分に気がついてから
以前ほど気にならなくなりました。

もう、嫌な言い方をしてくる上司が
私をわかってくれなくても
他にわかってくれる人がいるから
いいやと
穏やかな気持ちで
いられるのかもしれません。

ami

弱い自分を守るために戦っていた

長い間、
自分と対話しながら過ごしていました。

生きづらさをなんとかしたくて
人に依存してしまう自分が苦しくて
変わろう、変わろうと
コツコツ積み重ねてきました。

自分とたくさん会話をして
願いを叶えてあげて
自分を知っていくことが幸せでした。
自分で自分を幸せにしてあげられることが
嬉しくてしかたなかったです。

それに、まわりに優しい人はたくさんいて
緊張しながらも頼ったり頼られたりを覚えていきました。
だから人と充分に関わっているつもりでした。
幸せなつもりでした。

でも無意識に"ここまで"と人との間に境界線を
ひいていることに気がつきました。

この人とはもう少し深く関わってみたい
最近はそんな機会が増えてきたけれど

深く関わってみたい気持ちと
勝ちたい闘いたい負けたくないという
昔からの心の癖が葛藤しています。

この人は優しい人だから
信頼していいと本能的に気がついていても
むしろこの人は深いとこるまで
自分をわかってくれそうだとわかる時ほど
体にぐっと力が入り、
勝手に臨戦態勢に入っています。

今までの人生で全力で身に付けてきた
知識や思考力、経験を駆使して
相手より優位にたとうとしています。

本来は人見知りな私が
人の話を聞くのが好きな私が
まくしたてるように饒舌にしゃべり倒していて
人に指摘されて初めて自覚しました。

今ではすっかり社会になじんでいて
仕事のコミュニケーションでも
雰囲気をつくったり、
リーダーシップをとる機会も多くなってきて
すっかり忘れていたけど

でも昔の私は、誰に対しても
攻撃的だったのかもしれません。

自分は弱い。
闘わないと負けてしまう。
だから強くなろう、強くなろうと
戦いつづけてきたことにやっと気がつきました。

自分とたくさん会話して
生きずらさも解消してきて
でもどこかスッキリしていなくて

体のケアもとりいれてみてたら
呼吸か浅かったり体が緊張しがちな傾向が
みえてきたのですが
見えない敵と戦い続けていたことが
理由だったのかと納得しました。

弱かった私が
自分を守りながら社会と関わっていくには
どうしても強さが必要だったけど

自分が求めている
深い安心感のある
コミュニケーションのためには
今度は強さが邪魔になっていて
今まで一番大切にしてきたものを一度
捨ててみる必要があるんだなと考えながら
もじもじしています。

っていうか、すっかり忘れていたけど
あんまりよく覚えていなかったけど
すぐ泣くし、不安になるし、
依存するし、癇癪持ちだし
私はものすごく弱い人間だった!


もう一度その頃の感覚を
取り戻していこうと思います。

自分と会話ができて
いざとなったら戦えて
人にも頼れるようになった今なら
少しずつ弱さをだしても
いいんじゃないかと思います。
ずっと無視してきた弱い自分こそ
本来の人間らしい面白みのある
私なのかもしれません。

ami

なんとなく気になったものを味わってみる

"なんとなく"一瞬頭に浮かんだものを
気のせいだと軽く扱わずに
逃さないで味わってみると
心が深く満たされたりする。

不思議なことだなぁと思う。
忙しければ見逃してしまうような
小さな小さな"声"なのに

お菓子を食べたいとか
贅沢をしたいとか
優越感を感じたいとか
もっとたくさんの
欲望にまみれた大きな"声"に
簡単に消されてしまうような
小さな小さな"声"なのに。

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先日、久しぶりに
ヴィジョンボードでもつくろうと

なんとなく気になるキーワードを
ポストイットにたくさん書いて
それを整理するために
1つ1つグルーピングしていた。

"幸せ"とか、"わかちあう"とか
"愛情"とか、"健康"などの
よくみかけるキーワードの中に

1つだけ浮いているポストイット
みつけた。
"月"と書いてあった。

なぜそんなことを書いたのか
よく覚えていなかったけど
なんか気になったので

どれくらい心が求めているのか
わからなかったけれど
とりあえず
本屋で月がテーマの写真集を買ってきて
(2600円もしてもったいないし
大きくて邪魔になるから
本当は買いたくなかったけど)

写真の月を眺めながら
ドビュッシーの月の光を聞くことにした。
その日は新月だったので
本物の月は見えなかった。

インターネットでアポロ計画
月面着陸について調べたり、
陰陽道の陰ってなんだ?と調べたりもした。

結局自分が何を求めているのか
よくわからなかったけれど
なんだか知らないけど、ただ楽しかったし
深く心が満たされて安らいだ。

その満たされた心を味わいながら
そういえば子供の頃は目立つのが苦痛で
でも地味すぎると
まわりから浮いて悪目立ちするから
地味すぎにならないように
気をつけてていたことを思い出したり

"静寂"というキーワードが浮かんできた。
いまはただのリラックスではなく
"静寂"を求めているのかもしれないと思った。

そういえばアート作品でも
情報量の多すぎない
想像力を求められるようなものを好むよなあと
なんとなくこじつけて考えてみたりもした。

結局まだ何がなんだか
よくわからないんだけど
しばらくは"月"とか"影"にまつわるものに
いろいろと触れてみようと思う。
何か大切なものが
みえてくる気がする。

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森光伸 月の空 光村推古書院


ami

「私、ちゃんとしてます。」人に対する私見

「私、頑張ってます。」
「私、バリバリ仕事してます。」
「私、ちゃんとしてます。」

まったくの個人的な感覚なのですが
そういう方々特有の

窮屈さや重さが
なんだか不快だなー。

文句はないけどなんか苦しいな。
正しいんだけどなんかおもしろくないな。
と感じることが最近増えました。


なんで窮屈に感じてしまうのか、
それは彼らが不安を消すために
頑張っているからなのではないかと
考えています。

私自身、どちらかというと
「私、ちゃんとしてます。」
という系統の人間で
なんで「ちゃんと」するかというと
不安だから、怖いから、
文句を言われたくないから、
認められたいから・・・。

心の底に、
そんな弱さや欲望が溢れているのに
それを隠したくて

強くて純粋無垢な自分を
必死に演じているからです。

無意識にやっていたので
自覚はありませんでした。
子供の頃から繰り返してきた
癖みたいなものです。


でも、等身大の自分で生きようと決めて
考え方や行動を選びなおして
自分自身に優しい気持ちを向けたり
自分のことを客観視できるようになってきて

不安を圧し殺して隠すのではなく
不安をうまく飼い慣らしながら
自分や相手の弱さも受け入れて生きたいなと
思うようになってきて

「私、ちゃんとしてます。」人特有の
重さや窮屈さを感じるように
なってきました。


「私、ちゃんとしてます。」人は、
一見、タフで柔軟で気が利いて賢くて
完璧に見えますが

接していて気を遣います。
思春期の繊細で揺らぎやすい
女の子と接しているようで、
いつ癇癪をおこすのか
いつ泣き出すのかわかりません。

うまくいっている時は
勇ましくて頼りになるけれど
それは必死で造り上げた強さなので
ちょっとしたことで壊れて
傷ついてしまい
感情の起伏が激しくて
嵐のように暴れまわるので
周囲にネガティブなエネルギーを
撒き散らします。
距離を間違えるとまわりの人まで
破壊されてしまいます。

でも彼らは自分を
「ちゃんとした人」
「私は頑張ってる人」と思っているので
自分がまわりを
破壊していることに気がつかずに
自分が蒔いた種とは気がつかずにに
うまくいかない理由の全てを
周りのせいにします。

そして彼らの多くは
誰かに文句を言われないための能力に
重点を置いて発達させてきたので
自分の感情を感じたり
自分の心の状態を客観視する力を
あまり発達させていません。

なので、
感情の発作を起こした時に
感情をう◯このように
まわりに撒き散らしていることに
気がつくことができません。

私は、そんな
「私、ちゃんとしてます。」人に対して

例え立場が自分よりも
上の方であったとしても
まだ大人になりきれていない子供として
接することにしました。

冷たいようですが、
自分を守るための選択です。

もちろん、
表向きには大人として接していますが。

そして私自身もまだまだ
「私、ちゃんとしてます。」人的な
発作をおこしそうになることがあるので

力の抜き方やゆるみ方を学びながら
周囲と調和して
心を成熟させていきたいなと
思います。


ami

完璧主義に潜む弱さについて考えてみました。

「私の人生、予定通りにならなくていい!
何がおきても楽しめるよ。
人より遅くても
順調じゃなくても
楽しいから大丈夫だよ。」


疲れに疲れて
ただぼんやり過ごしていたら
心にふらりと言葉が
降ってきました。


私はどちらかというと
"完璧"が好きなタイプだし
"完璧"って素晴らしいことだと
信じて疑わずに生きてきました。


でもこの言葉を心で感じてみて
この1年、
私以上に完璧を追求する人達と
関わってみて
"完璧主義"ってある種の逃げでもあるんだなと
気がつきました 。

不安を埋めるために
誰かに文句を言われないために
完璧を目指す。

そのために健康が犠牲になったり
大切な時間を浪費したり
心が深く傷ついたりする。

そこには信頼も優しさもない。
笑いも安らぎもない。

そして、予定どおりにいかなかった時
理論どおりにいかなかったとき
自分は何も出来ない弱い人間だと
決めつけている。

自分は弱い人間だから
誰かに責められないように
することが大切という考え方。

完璧でいさせてくれない
何かを誰かを
強く批判し攻撃する。

そんな孤独で疲れる生き方を
私は選んできたんだなと
ぼんやり過去を振り返っています。

完璧を目指すことは
まわりとの関わりを断って
自分一人の世界に閉じ籠る
生き方なのかもしれません。

例えば芸術とか研究とか
プロのスポーツ選手とか、命を扱うお仕事、
信頼性が大切なお仕事とか・・・。
時に完璧を目指すことは
美しく、素晴らしいと思います。
自分と向き合って孤独に闘うことが
大切なタイミングもあると思います。

でもそれは時と場合によるし
バランスが大切だということに
私は気がついていなかったようです。


過剰に完璧を目指していないか
完璧な完璧を押し付けられていないか
目的もぶれていないか
自分が傷つかないこと
恥をかかないことが目的になっていないか

心の癖や習慣はすぐには変わらないので
振り返ってチェックすることが
大切なのかなと思います。


ami