ふんわり優しい暮らし

少しずつ心を解放しています。

【年収アップとマインドチェンジ】

先日転職をしました。
心の弱さからどうしても抜け出せなかった
パワハラ環境から、ついに脱出しました。
ついでに期待以上にお給料が上がりました。

なぜこんなことが起きたのか?
マインドの変化をふりかえりたいと思います。

変化の様子を大きくとらえると、
以下の2つのステップに別れるなと思います。

1) 心のゴミを徹底的に整理した

2) 変化に対する捉え方が変わった

まず、
1) 心のゴミを徹底的に整理した
について。

これは約7年かけて取り組みました。

幼い頃から抱えてきた生きづらさを
解消するために、

・自分の弱さと向き合ったり
・考え方を変えたり
・嫌いなことをはっきりさせたり
・人との関わり方を見直したり
HSPにとって快適な環境を整えたり

このブログでもたくさんの思いを吐き出して、
あたたかい言葉や応援をいただきました。

そして心のゴミが整理された頃に起きたのが、

2) 変化に対する捉え方が変わった

という、心の動きでした。
心のゴミに埋もれていたころは、
私は変化が嫌いでした。

・変わらないことが普通
・変わらないことが美しい
・変わらないことが当たり前

と、思っていました。


でも心のゴミが整理されるに従っていつのまにか、

・物事は変化するのが自然なこと

と捉えるようになっていてました。

気がつけば周りは、
変化に抵抗がない人の割合が
多くなっていましたし、

フットワークが軽くなって、
なにかをやりたいと思ってから
着手するまでの期間が圧倒的に早くなり

とりあえずやってみるというスタイルも
定着してきました。

以前いた会社は、
変化を嫌う保守的な会社でした。
今いる会社は、
変化に抵抗がない人が多くいる環境です。

変化に抵抗がなくなったから
お給料がアップしたのか、

給与水準が高めに設定されている
環境に飛び込めたから
まわりに影響されて
変化に対する抵抗が薄くなったのか。

そのどちらかはわかりませんが、
ともかく変化に対する捉え方で、
手にするチャンスも幸せもお給料も
変わってくるんじゃないかと感じました。

これは心のゴミを徹底的に整理した
今だからから言えることで、
何より大切なのは
心の健康を維持することだと思うから、
疲れている人や傷ついている人は、
まずは休んで欲しいと思うけれど、

自分をたっぷり癒したあとは、
変化は当たり前ととらえることで、
より人生と時間を大切に出来ると感じています。

そして変化を前向きにとらえるための
準備として
自分を癒す時間は、
決して無駄にはならないし、
大切な時間だなと思います。

たくさん泣いたし苦しかったし、
何度も挫折しかけたけれど、
それでも今まで頑張れた自分が、
とても誇らしいです。

今は大変な時代になりましたが、
変化に対する抵抗をさらに小さくして、
柔軟に前に進んでいきたいと思います。

ami

【zoomごはん会・zoomカフェ会をやってみたよ】

新型コロナウイルス
感染拡大を受けて
思いっきり外出を
自粛していたら
すっかり気が滅入っていました。

オンライン飲み会が
結構楽しいよ~っという話は
ビジネススクールに通っていた頃に
なんとなく聞いていて、
気にはなっていたのですが
私はお酒が苦手なので
そのまま忘れていました。


ところが
今回のコロナ騒動で
外出の自粛を完璧にやりすぎて
あまりにも人との
対面のコミュニケーションが
少なくなってしまって
精神的にやばい状態になってきて
なんとかせねばと思っていたとき

ひょんなことからzoomを使って
オンラインごはん会を
開催することになりました。


これが思ったより楽しくて・・・。
もう、すごく楽しくて・・・。

そういえば誰かと向き合って
ごはんを食べたのは
何日ぶりだろう
幸せだなぁ・・・。

と実感できる程に
楽しい時間を過ごしたり
悩みを相談したりしました。

ごはんのあとは
各自コーヒーなどの飲み物を準備して
そのままカフェタイムへ突入。

コーヒー豆をひいたり、
台所とカメラの前を
行ったりきたりする中で
コーヒーに対する
各自のこだわりを聞けたり、
なんとなく個性がにじみでてしまう
コーヒーカップの話をしたり。

カフェでお茶するのとも
おうちに集まるのともまた違う
相手をぐっと身近に感じる
新しい感覚の楽しい時間を
過ごすことが出来ました。


オンラインを使って人と会うって
世界中の人と画面を通して繋がれるし
きっとこれからシステムの
機能性もぐっと良くなっていく。

直接会ったときの臨場感には
もちろん叶わないし
今はまだまだ
コミュニケーションに
ストレスがないわけじゃないけれど
それ以上の無限の可能性を感じました。

zoomもFaceTimeSkype
知ってはいたけど
コロナがなかったら
ほとんど使うことも
なかったなあと思います。

お部屋の中で
どれだけのことが出きるのか
この機会を、
チャンスに変えていきたいです。

ami今週のお題「わたしの部屋」

【コロナ関連ニュースに振り回されてしまう私、時間の使い方を見直す】

新型コロナウイルス関連のニュースに
振り回されてしまう。

毎日のように
朝起きてすぐに
1時間くらい関連情報を収集し、
昼間も夜も、気がつけば何度も
スマホをチェックしてしまう。
ものすごい時間の浪費だ。

少しずつ準備してきた
食料や衛生用品の備蓄も
ほぼ完了したし
癒しや健康グッズも買い足したし

ありがたいことに仕事は在宅勤務になり
しばらく外出する必要はもうほとんどない。

だから今の自分にとって重要なのは

・家の中で楽しく過ごす
・心身の健康を維持する
・将来のために自己投資をする
・資産管理の情報を集める
・仕事の生産性を維持する

あたりなのであって、
国内外で感染者が何人出ようが、
ロックダウンしようがしまいが

自分にはもう
どうすることも出来なくて
だから根拠や背景のしっかりした
質の高い最低限の情報があって
大枠の流れが掴めれば
細かい情報はあんまり必要がないのだ。

なのについつい、
中毒のようにニュースを追ってしまう。
ものすごい時間の浪費だ。

医療現場の切羽した状況や
経済への影響の話は
本当に心が痛むけれど

自分が協力出来るのは
感染拡大を防ぐために外出を避けることや

景気や感染拡大に
影響されにくい業界にいるからこそ
微力ながらも経済を停滞させないように
仕事で成果を出し続けること。

ニュースをみる時間は
回数や時間を制限して
今やるべきことを大切にしよう。


ami

【無意識の思い込み・家族のあり方について】

無意識の思い込みのせいで
ものごとがうまくすすまなかったり
思うように行動できなくなるという話を
最近本などでよくみかけます。

先日家族とちょっとした喧嘩をして、
すぐ仲直りをしてしまうような
ちっちゃなちっちゃな
可愛らしい喧嘩だったんだけど

その喧嘩をきっかけにして
家族に関する
無意識の思い込みに気がついて

そりゃーなかなか
人生が上手くいかないわけだと
納得したので
振り返ってみたいと思います。


私は最近、
大きく環境が変わって
考え方や生き方も
ちょっとした成長期にいます。

それをある家族がさみしがって
ちょっとした抵抗にあいました。

・なんかいつものamiちゃんじゃない
・やだやだやだ
・雰囲気が違う
・もう必要としてくれない

そんな感じでした。
その家族は、
とても優しく、
私以上に繊細で感受性が強く
苦しい時期に
全力で寄り添ってくれました。

いつも暗くて落ち込んでいた私が
苦しさから抜け出して
機嫌よく過ごしている姿に
戸惑ってしまって
感情が乱れてしまったようです。

そんな家族の抵抗に
私は必要以上に寄り添ってしまって
自分がその日に
やろうとしていたことを
キャンセルしてしまうくらい
たまらなく疲れてしまいました。

家族って距離が近いから
遠慮が少ないし、大切だし、
距離感がわからなく
なってしまうことが
私はよくあります。

私は自分の本心と
正直に向き合ってみました。

そうしたら、
誰より自分の気持ちに
寄り添ってくれた家族だけど
今後も私の成長をひきとめるなら
距離の取り方を
変えるしかないと感じました。

冷酷な自分に嫌になりながら
家族ってなんだろう?と
考え続けました。

私がこの小さくて
些細な喧嘩をきっかけにして
感じたのは
家族であっても
価値観は違うし
人格も違うということ。

争いのすくない、
比較的仲の良い家族だから
わからなかったけれど

私は今まで、
家族の中にいるときに
自分という一人の人格を
あまり意識していませんでした。

両親が作ってくれた
家族のカタチを
何の疑いもなく
受け入れていました。

両親が与えてくれた
幸せの枠の中で
どうやって幸せに生きるかを
模索していただけでした。

両親の幸せの価値観と
私の幸せの価値観は違うのに
両親が与えてくれた
幸せの枠だけが
世界の全てだと
思いこんでいました。

例えば家族のあり方だって
両親の望む幸せと
私の望む幸せは
枠のカタチも大きさも
材質も違うのに

私は無意識の中で
必死で生まれた家族の枠に
あわせていました。

私が育った家族は
虐待などもなかったし
大人になった今は
強制されているわけでもないのに
だから自由に出ていけるに

家族のあり方は
ひとつしかないと思いこんで
自分で新しくつくるという
発想がありませんでした。

今は未婚ですが、
例えば結婚して子供ができていたら
自分が育った家族と
まったく同じ家族のカタチを
つくろうとしたんじゃないかと
思います。

家族のカタチもあり方も
私と両親では
望むものが全然違うのに、

幸せのカタチは
ひとつしかないという
思い込みの枠の中で
幸せをになろうとしていたから
幸せになれるはずなかったのです。


これからは、
育った家族にしがみつかずに
幸せのカタチや
家族のあり方を模索して、

自分が心から
心地よいと思える環境を
つくっていきたいと
感じました。

ami

【結果に執着して失っていたもの】

結果に執着しない。
結果を手放す。

今まで何度も本で読んできた言葉。
そんなこと出来るか・・・って
思ってきたこと。

そんなこと出来ないと
思っていたけど
人は変わるものですね。
ようやく向き合いはじめました。

私は勝負の世界は結構好きだし
ビジネスの世界で
結果を求めることも
間違っていないと思います。

結果に執着することのすべてが
ダメなわけじゃないと思います。

ただ、
人間関係とか心の問題にまで
当てはめてしまうと
苦しくなってしまうんだなと
最近感じます。

私は人間関係がずっと苦手で、
特に親密になるほど
相手を大切に思うほど
一緒にいるのが苦しくなるのですが
その理由の一つは
私が無意識に
相手を縛ってきたからだと
気がつきました。

私を喜ばせろ!
私を楽しい気分にさせろ!
私に充実感を感じさせろ!
私に自己重要感を感じさせろ!

どんなにいい子なふりをしても
心の中では不安にとらわれていて
相手を自分の思いどおりにしたい
気持ちでいっぱいでした。

今はもう抜け出せたのですが
長年ハラスメントを
受けていた理由が
よくわかります。

自分も同じことを
相手の人の存在そのものを
否定するようなことを
大切な人達に向けてやっていたから。
そういう関わり方しか
わからなかったから。
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でも"ありのままの自分"の存在を
自分で感じることができて
許すことができて
愛する気持ちがうまれてきて

その優しさを少しずつ
自分の周りの人達に向けたいなと
思うようになって
人との関わり方が変わってきました。

以前は自信をなくして
落ち込む人がそばにいると

勝手に自分を
否定される気がして
イライラしてたけど

今はそんな心の癖に気がついて

何をどう感じるかはその人の自由だし
それは私には関係ないし
切り分けよう。
それにこの人はきっと
また元気になるから。

って切り替えて
相手との距離を保って
信じて待つことを
意識するようになりました。

人を縛らないことが
自分の思いどおりにしたいと
思わないことが
ずいぶんと気持ちを
軽くしてくれるんだと
びっくりしています。

結果に執着しない。
どんな結果も受けとめる。

ずっと生きづらさとともに
生きてきた過去を思うと
こんなふうにおおらかに構えて
プロセスを楽しめることが
奇跡のように思えます。
毎日、幸せだ。

ami

【幸せの押しつけに気をつけよっと】

生きづらさを抱えていた私が、
"ありのままの自分を受け入れる"
という難題をクリアして
約1ヶ月がたちました。

日常で大きく変わったことはないけど
今までと考え方が変わったり
選択が変わったりして
内面が豊かになりました。

幸せだなぁ
心地いいなぁって
感じる機会が増えたのと
感じ取れる幸せの感覚が
より深くなったイメージです。

ちょっとやってみたいことに
躊躇しないで
チャレンジするようになったことも
大きくて

幸せの総量が
圧倒的に増えたなあと思います。


そうなると・・・
同じ幸せを
だれかにも味わってほしくなる。

長く長く苦しんできたからこそ
痛みがわかるからこそ余計に、
幸せを感じる方法を
人に教えたくなる。

それで、
幸せじゃない人、
特に必死に努力している人、
幸せの一歩手前でもがいている人に
やたら目がつくようになりました。

自分が心地よいって感じたものを
すすめたくなってしまうんです。

その人が今幸せじゃない理由がわかるから
それを正したくなっちゃうんです。

でも、大切なことは!
"感性は千差万別"

『私が幸せなことが
相手にとって幸せとは限らない。』
ということです。

相手を幸せにしたいなら
まずあふるれるくらい自分が幸せになることと、
対話や観察を通して相手を知ること。

幸せの押し売りは
役にたった感を味わいたくて
自己重要感を味わいたくて
相手を利用しているだけだと
自覚をもつこと。

今までの交遊関係を
ふと振り返ってみると
素敵な人達のなかには
あんまり"おすすめ"を
してこない人がいるなぁと
気がつきました。

センスが抜群で、
質問したら惜しげもなく
教えてくださったり
分けてくださったりするのに
なぜか自分から主張してこない人。

なんでかなぁ?
控え目なのかな?
と思っていたけれど、

自分と相手との
価値観や感性の違いをよくわかっていて
お互いを尊重しているからこそ
控えめに感じただけなのかなと
今になって思います。

それに、ありのままの自分を受け入れるためには
心の準備が必要で、

たくさんたくさん
今までしがみついてきた価値観や
大切にしてきたことを
疑ったり手放すことになるから、
簡単には変われない人もいるし
生き方は本人の自由。

だから自分が出来るのは
幸せで居続けることと
相手を信じて
見守ってあげることくらいだなと
思います。


自分の幸せと相手の幸せが
同じじゃない。
相手には相手の好みがあって
相手のペースがある。

そのことを大切にしていこう。

ami

"らしさ"の押しつけについて

"女の子らしくなりなさい"と
母親に言われながら育ってきました。

私は現在、
どちらかと言えば女性らしいと
言われることが多いです。

でも子供の頃は
"女の子らしさ"を押しつけられるのが
何だか苦しかったです。

高校生の頃は、
わざと乱暴な言葉を使っていたり
モノを雑に扱っていましたし

大学生になっても
スカートは持っていなかったり
男性用のSサイズの服を
好んで着ていた時期もありました。

鋼のような強靭なメンタルが欲しくて
精神的にも自分を
厳しく律していました。


当時は自分が"女性的なものや振るまいが
嫌い"だと思っていましたし、
女性として扱われるのも不快でした。


でもいつからか、
そんな謎の抵抗をやめて
"らしさ"にこだわらなくなりました。

好きなようにすればいいじゃん!と
考えるようになりました。

結果的には女性らしいと言われることが
増えました。

なので学生の頃のあの謎の反抗の理由が
ずっと気になっていました。

なんで私自身の本質は
自分が女性であることが
嫌ではなかったのに
あんな無駄な抵抗をしていたのだろうかと。


その理由が、
ここ数ヶ月で
自分の感性を大切に出来るようになって
理解できました。


感性は人それぞれで
個人差がものすごくあることに
気がついたからです。

私が母親から押しつけられたのは
"私の中の私だけがもつ女の子らしさ"
ではなくて
"母のイメージする一般的な女の子らしさ"
でした。

母は私の中の私らしさを
感じられるような洞察力を
もっていない人でした。

でも感性が人によって様々なように
女の子らしさとか女性らしさって
傾向はあっても人それぞれ大きく違う。

私が反抗したのは、
"私の中にある女の子らしさ"を
母が見向きもせずに

"母のイメージする女の子らしさ"を
押しつけられたからだったのかなと
思います。


私の母は個性を尊重するような
柔軟性のあるタイプでは
ありませんでした。

第一子だったから
必死で育ててくれたのかもしれませんが。

でも自分自身をみてもらえないのは
とても孤独でした。
私がありのままの自分が
よくわからかったのは
このあたりの親子関係に
背景があるのかなと思います。

男とか女とか年齢とか、
いい子とか扱いにくい子とか
どの地方出身とかどんな職業だとか
そんなふうにカテゴライズしないで

"その人らしさ"を大切にできる人間に
なりたいなと
そんなふうに思います。
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ami