ふんわり優しい暮らし

少しずつ心を解放しています。

鈍ってた

4連休、
さて何をしようかと考えても
やりたいことが思い浮かばない。
せめて何か
美味しいものを食べさせてあげようと
デパ地下にいっても
心が反応しない。

感覚が鈍っている。
最近仕事に忙殺されていたからだ。

自分が薄くなっている。
自分が薄くなると
痛い思いや嫌な思いをして
自分を感じたくなる。
強い刺激じゃないとわからないのだ。


結局、
ホテルでおこもりステイを選んだ。

遠くにみえる山を
空がだんだん赤く変化していく姿を
ただぼんやりと眺めたのは
いつ以来だろう。
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空の色が複雑で
時間とともに変化することを思い出した。
夜は空が暗くなることも忘れてい気がする。
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なんだか感覚がすこし
戻ってきた。

ami

上司が泣き出してびっくりした。

職場の面談中に、上司が急に泣き出した。

ご自身の至らなさを責めているようだったが
自分が責められているように感じてしまった。

今の職種や環境に対する
私の適性のなさを指摘された。
私自身、自覚していたことだ。
これからどうするかを考えている最中だった。

生活があるから
いきなり動けるわけでもないし
もうしばらく今の場所で過ごしていくのに

自分のことを適性がないと言ってきた人と
これからどう接していいのか
わからない。

そもそも面談中に泣き出す人と
どう接していいかわからない。
泣きたいのは私の方である。


今回気がついたことは
自分を責める人は
意図せず人を傷つけてしまうことと

相手をよく理解出来ていない段階で
安易に適性のなさを指摘することは
本人はよかれと思っていても
言葉の暴力になってしまうということだ。

時に伝えることがベターなこともあるかもしれないが
その時は、
まずは信頼関係が構築できていることと

適性はどういう方向にあると考えるのか
示すこととセットである必要があると感じた。
ただ向いてないと言われても
ただの苦情みたいに感じてしまう。

今回はどちらもなかったので
自分で適性のなさを自覚していても
不快な気分になった。


ところで部下の前で
思わず泣き出してしまうとは
上司は何にどれだけ、
追い詰められているのだろうか。
仕事ってそこまで無理をして
やるものなのだろうか。
そんな仕事に意味はあるのだろうか。

泣くほどに自分を追い詰める仕事など
私には適性がなくて当然だろうと
思ったりする。

私はもう、
自分を傷つけるような生き方は
選ばないと決めたのだ。

ami

他人に反応しない方向について考えてみました。

人を裁くような生き方はしたくないし
人をコントロールするような接し方は
したくないなと思います。

考え方ややり方、ペース配分の違いを
尊重できる人でありたいと思います。

そうあれるように、
自分を客観的に観察していきたいと思います。


人の心はそれぞれ違う個性があるけれど

例えば
感情は無視しないで
しっかり感じた方がいいとか
自分の汚いところやしょぼいところも
認めてあげた方がいいとか

一般論としていくつかの
幸せになるためには"こうしたほうがいいよ"
があって

過去に大きな生きづらさを抱えていた私は
そういったアドバイス
時間はかかっても素直に実践してきたので

あの頃の私によく似た人や
自信がなさそうな人
仕事や他の何かに依存的な人
犠牲的な生き方の人
他人に対して威圧的な人
極端に自分を追い込んでいる人
感情を感じないふりをしている人・・・
などに遭遇すると

自分の中にある常識
"◯◯は正しい"
"◯◯を実践してない人はNG"
を強く感じてしまって、

"目の前のNGな人を変えなければ"
という思考回路になってしまうことがあります。

でも、私は生きづらさから抜け出したかったから
葛藤はあっても素直に受け入れたけど

苦しみや痛みにしがみついてる方が
幸せな人もいるのかもしれないし

そもそも生きづらさを
抱えていないのかもしれなくて

抱えていいたとしても
問題視していないのかもしれなくて

さらには苦しいと訴え助けを求めているのに
本心では変わる気がない人もいます。
そういう人は
受けとめられるようになるまで
時間が必要なのかもしれません。

だから私の中の"正しい"や
"実践してよかったこと"
を押し売りするのは間違っていて

押し付けてしまうと
自分も相手もハッピーにはなれないんだと
何度も自分に伝えて

無意識に人をコントロールしようとするのを
やめたいなと思います。


自分を追い詰めている人って
接していると私も苦しくなってしまうから
そこから逃れるために
無意識に相手をコントロールしようとしちゃうのかなと思うのですが

そんなことより
出来るだけ距離をおくことの方が大切ですね。

そしてもし
接していて苦しいと感じてしまう原因が
自分自身にあるとしたら

生きづらさを感じていた頃の私を
私自身が今もNGだと思っていて
だからその頃の自分にどこか似た状態の人に
接すると
NG判定してしまうのかもしれません。

思い返せば
生きづらさを感じていた頃の私は私で
その時の喜びもあったし
素敵な人達にも出会えたし
結構頑張っていて
夢を叶えたりしていたし
その時の頑張りに今も助けられているし
私には必要な時間でした。

NGではないですね。
大切な思い出であり
大切な自分自身の一部です。

人は教科書通りにはいかないことも多いし
不器用な人も弱い人もいる。
回り道がどうしても必要なこともあります。

目の前で起きている出来事だけで判断せずに
目には見えない背景や事情があることや
長いスパンで物事をみることを意識していれば

他人に過剰に反応せずに
自然に自分自身に集中できて

誰かを"正しい状態"だとか
"是正しなきゃ"とか

必要のない判断を
することもなくなるのかなと
感じました。

他人への過剰な干渉は
エネルギーの無駄遣いですね。
自分の幸せに集中しよう。

ami

アーシングで感じた不安感情の扱い方のヒント

1つ前のブログで
不安な気持ちを押さえつけないで
向き合うと決めたと書いたのだけど
不安の扱い方はどうも難しいとわかった。

さみしい気持ちは
感じきると安心して
すーっと消えることが多いけど
どうも不安感は
感じれば感じるほどに
雪だるまのように
大きくなっていくようだ。

不安の扱い方を求めて
本を読んでみても
私の探している答えは書いていない。

「そっかーあのとき不安だったんだね」
と、自分の中の小さな女の子に語りかけても
他のネガティブ感情のように
変化はみられないのは

私の心の根底にある不安感が
自由を脅かされるかもしれないとか
まわりにあわせられないと
社会で生きていけないといった
生存欲求と関連の強い
感情だからなのかもしれないと
考えてみたりした。

でも答えはどこにも書いてないし
得体のしれない不安は
どんどん大きくなっていくし
不安が大きくなると気分が悪くなっていく。

不安の扱い方は
他の感情とは違うのかもしれない。

それで気を紛らわすために
なんとなくネットサーフィンをしていたら
アーシング」が紹介されていた。

裸足で地面に足をついて
体にたまった電気を流すことらしい。
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最近やっていなかったけれど
私は公園でよく裸足になるし
海で泳ぐのは面倒だから嫌いだけど
裸足で砂浜を歩くのは好きだ。

私が裸足で歩くのは
ただひんやり心地よいからなのだけど
実はそれに名前があって
健康法の1つだったとは
すごく面白かった。

それで久しぶりに
裸足で公園を歩いてみたのだけど
やっぱり気持ちがよくて
一瞬で気分が切り替わった。

電気のことや
アーシングの有効性はよくわからないけれど
とにかく気分がさっぱりして
不安感がどこかへ飛んでいた。
不安が消えて体のこわばりが減って
腰の痛みも楽になった気がした。

思い詰めていたんだなーと思う。
不安を感じている自分を
認識することは大切だけど

不安というのは感じるほど
無駄に大きくなるから
アーシングのように
流してあげることが大切なのかもしれない。

ami

整体で不安を過剰に我慢する心の癖に気がついた。

心を癒して
自分らしさを取り戻していくプロセスの中で

一般的にマイナスとして扱われる感情を
感じることに許可をするプロセスは
とても大切だなと感じています。

数年前に、
ずっと無意識に禁止にしていた
「さみしい」という感情を
久しぶりに口にしたら

さみしさくて孤独を感じているのに
同時に素直に気持ちを表現できた
安心感に包まれるという
不思議な感覚を味わって

「さみしい」ってただの感情なのかと
「さみしい」ってただ感じるだけで
こんなに楽で心地よくなるのかと驚いて

それ以来「さみしい」と感じることに
恐れがなくなりました。

嫌いとか、不快とか、
なんか嫌だとか・・・
「さみしさ」を受容したときに感じた
安心感がやみつきになって
私は蓋をしてきたたくさんの感情を
許可していきました。
そのプロセスの中で
それまでずっと依存していた
人間関係を断ち、転職し、
ずいぶんと自由に生きられるようになりました。

いいことなのか、悪いことなのかは
わかりませんが
悩みが減ったので、考え込むことも減って
ブログの更新も減りました。

マイナス感情の扱いは
もうだいたい出来るようになったし
まあこんなものかと思っていました。

心の歪みもだいたい整ってきたし
次は体にアプローチしようと思って
最近通い始めた整体でふと気がつきました。

自分の体の状態を客観的に教えていただき
体の痛みや不調に向き合う中で

そういえばその歪みは
小学生の頃からあったな、とか
中学生の頃から体がかたかったし
体は痩せてるのになぜか
下腹だけ異様に出てたよな、とか
子供の頃を思い出す機会が増えました。

私は普通の子供より
不安感を感じやすかったし
集団行動も苦手だったし
なぜか悪目立ちするし
よく困ったことが起きました。

でも周りからしたら、大人からしたら
大したことじゃなかったりして
話を聞いてもらえず
助けてもらえず
助けてとも言えず。

私は誰かに助けてもらうことをあきらめて
歯をくいしばってふんばりつづけて
不安感や恐怖をぐっとこらえて押し込んで
誰にも邪魔されないようにと
強くなろうとしたことを思い出しました。

心の痛みがあまり強くて
体の痛みまで感じられなくて
痛みとして自覚するようになったのは今だけど
私の体が不調だったのはきっと
子供の頃からなのだと思います。

心で受け止めきれなかった
「不安感」や「恐れ」を、
ぐっとこらえて体に
溜め込み続けているのかもしれません。

今まで自分の体にあまり興味がなかったけれど
そのことに気がついてから
自分の体の痛みが愛おしく感じて
痛みを丁寧に取り除いてあげたいと
思えてきました。

そこまで感じてようやく気がつきました。

自覚はなかったけれど、
私は子供の頃から、そして今もずっと
「不安感」を押し込む癖がありました。

不安を消すために、必死に頑張り、行動し、
頭を使い、気を遣い、誰かの犠牲になり、
体を壊しそうになるまで働いてしまうことが
よくわかりました。

不安の扱いって、とても難しいなと思います。
先日もある人から
一方的に不安の感情をぶつけられて
抱えきれないほどの重荷を感じ、
心が混乱したことがありました。

不安感を感じることは大切だけど
扱いには慎重さが必要なのかもしれません。

新しいことに挑戦するときには
不安はつきものだし

不安を感じられるから危険から
身を守ることもできるし

不安そのものは何も悪くはなくて

不安とのつきあい方は
その人の生き方そのものだなと思います。

今まで不安を押し込むことしか
してこなかったので
それ以外の関わりかたがわかりませんが、

そもそも不安を感じながらも
楽しく前向きに前に進んでいく感覚が
今は想像もつきませんが

今まで扱ってきた他の感情と同じように
ただ不安な気持ちを感じきることから
始めてみます。

ami

神保町の古本屋街で思ったこと

緊急事態宣言が出る少し前に
神保町の古本屋街に行った時の写真です。

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古くて変色していても
価値のある書物たち。

ずっとずーっと
誰かが大切にしてくれていたから
この本が今ここに
あるんだろうなと思うと
あたたかい気持ちになりました。

私は第六感があるわけではないので
例え話ですが、
本1冊1冊が放つ不思議なエネルギーに
街全体が包まれているように
感じました。

インターネットがあまりにも
身近になり過ぎて
すっかり忘れていたけど

ほんの少し前の時代まで
インターネットは
当たり前じゃなくて

情報を得るために
思いを伝えるためには
たくさんのお金と時間と労力が必要で
書物はその重要な手段の
1つだったことを
ここに来て思い出しました。

知ること、学べることが
当たり前になった時代に
あらためて感謝するとともに

情報が簡単に手に入る時代になったからこそ
今回私が古本屋街で感じたような
古本が放つエネルギーや
独特の街の雰囲気を
感じとれるような
感性を大切にしていきたいです。

なにより労力をかけて
現地にわざわざ出向いて
肌で何かを感じることを
忘れたくないと思いました。


東京駅を見渡せる
KITTEの旧東京郵便局の局長室も
大好きな場所です。
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宇宙旅行が現実になりそうな
時代になってきましたが
約100年前は鉄道や郵便が
最先端の輸送手段、
情報伝達手段だったことを
感じとれる場所です。

最先端のテクノロジーも大好きで
積極的に使っていきたいですが
どんなにテクノロジーが発展しても
ずっと変わらない
人間にとっての喜びを
大切にしたいなと思います。


ami