ふんわり優しい暮らし

少しずつ心を解放しています。

【人を嫌いになるのを避けていたことで自分らしく生きられなくなっていた】

『嫌いな人を嫌いと認めたら
好きな人がわかってきたよ』

散歩しているときに
友人がふとなんとなく発した言葉が
印象に残っています。

めったに人にアドバイスをしない
慎ましい性格の友人が
私が特に何かを
相談したわけでもないのに
発してくれた言葉。

それは長年生きづらさに悩み
これから自由な生き方を
選択しようとしている
今の自分にとって
とても重要なことのように
思えました。

人を嫌うことに対する、
罪悪感や心の痛みは、
自由に生きたいと願う私が
今、一番手放したいことなのかも
知れません。

人を嫌いになるのを避けることで
無駄な時間とエネルギーを浪費し
人生の可能性を狭めていることに
気がついた話を
振り返ろうと思います。

***

友人の言葉をうけて
先日自分が書いたブログの
ネガティブな感情を
羅列した部分をみてみました。

・苦しい
・さみしい
・つらい
・痛い
・恐い
・不安
・惨め

となっていて、

"嫌い"とか、"イヤ"っていう感情は
書いてありませんでした。

そもそも
ニュートラルなはずの感情を
ポジティブとネガティブに
分けてしまうのは本質的では
ありませんが、

一般的にはネガティブに分類される
代表格なイメージのある
『嫌い、イヤ』っていう感情を

羅列したときに
思い浮かばなかったのは

避けていたことにも
気がつかないくらい
感じることを禁止していたからなのかも
しれません。

その中でも"人を嫌う"ということは
どうやら特に避けていたようです。

いい子でいたい願望の
強い子供だったから

学校の先生の言う、
『みんなで仲良くしましょう!』
という言葉を

大人になっても
鵜呑みにしているのかもしれません。

また、
いじめられっ子気味だったし
変わり者で人と同じことをするのが
苦手だったので
人に嫌われ、集団から排除される
痛みや理不尽さを
たくさん経験してしまい
同じことを人にしたくないと
強く思うようになったのかもしれません。


***

でも社会人になっても
その癖は抜けなくて

コミュニケーションが
うまくいかない
パワハラ気味な人との人間関係に
何度も悩んできましたが

自分の至らない部分が10
相手の落ち度が90だったとしても

自分の至らない至らない10を
必死で直そうとしていました。

外からみていた友人は、
パワハラ上司に対する私の態度を
「少しでも相手の良いところをみようと
一生懸命になっているよ」
と、表現してくれました。


***

そして"嫌いな人を嫌いと認める"
という概念が自分の中に
入ってきたとき

真っ先に思い浮かんだ人が
いました。

それは、今一緒に働いている
モラハラパワハラ、セクハラのある
上司でした。

自分がまだ仕事を始めたばかりで
未熟だった頃に
助けてくれたりアドバイスをくれた方で
初めは頼りにしていたし
慕っていました。

でも、
・論点をすりかえて話を
コントロールしようとする
不可解な言動が日常

・どう考えても論破できる
胡散臭い言い訳を繰り返す
(が、論破するとキレるから面倒)

・自分が優位に立つために
平気で人を傷つける弱さが目立つ

・あなたの◯◯に◯◯の人達が困っている、
といった断定を避け責任を逃れる
曖昧な表現が多い
(さらに私が本当にその人達を
困らせているのかがよくわからない)

・罪を謝らずに人に擦り付ける

・指示通りに仕事したらキレ出し、自
分はそんな指示していないと言い張る

・指示がくるくる変わり、
はっきりしない部分を質問すると機嫌が悪くなる

・軽いお願いや注意して欲しいことを伝えると、
そんなことより自分はあなたの◯◯に迷惑している、
という関係ない話を持ち出す
小学生のような反応を示す

・感情的で話が通じない、
質問すると難しく考え過ぎだと話を遮る

・なんでも見張りたがる


他にもいろいろありますが
私はこの、
どう考えても害のある人物を、

「お世話になった方」

「ちょっと自分に自信がないから配慮が必要な人」

「承認欲求が高めの扱いが面倒な人」

「感情のコントロールが苦手な人」


くらいにしか思っていなかったことに
気がつきました。

その人の悪口はよく言っていますし
一緒に働いていた仲間が全員立ち去り
私とその人(上司)だけが残って
なんかおかしいと感じてもいました。

泣きながら仕事をしているし
仕事に集中できなくて会社もよく休むし
モチベーションは低下していくし
病院で薬を処方されました。

セクハラは身体面にも関わる
相当に不快なことがありました。
その人のお子さんのことを思うと
本当に悲しい出来事でした。


でも私はその人物を
嫌いなふりをしていただけで
ちゃんと嫌っていなかったようです。

トラブルがおきるのは
自分の弱さや未熟さのせいだからと
どこかで思っていました。

相手もそれを知っているから
私は何をしても許してくれると
思っていたのでしょう。
私に対する態度は
辞めていった他の同僚達に対してより
さらにキツかった。

でも冷静に考えてみると
例えお世話になったことがあっても
その人はもはや信頼できる人物ではないし
相手にしちゃいけないし
距離を置かなきゃいけない人物でした。

そんな人を無意識に許してしまうくらい
人を嫌いになりたくない私の思いは
強いようです。



***

振り返ってみて思うのは
なんとなく私は、
嫌いという感情をやっぱり避けているし

特に人を好きとか嫌いとか思うことが
人を裁くようでつらいのかもしれません。


誰に対しても平等でいたい
人を嫌ってはいけないという
思いが強すぎて
好きな人を認めるのが
恐いのかもしれません。

ずっと恋愛を苦手としてきましたが
いい人でいたい願望が強すぎて
人を選んだり選ばれなきゃいけない恋愛に対して
良いイメージが
なかったのかもれしれません。


でも世の中には明らかに
相手の生きる権利や自由を奪い、
トラブルや責任を押し付け
支配や依存をしようとする人がいる一方、

人の痛みに寄り添い、
富をわかちあい、
トラブルに対ても
力を出しあいながら前向きに解決し
お互いの力を高めあい、
成長していこうとする人達もいます。

本当は、
誰と生きたいのか、
どんな世界で生きたいのか、
自分で選んでいいんですよね。

無理に平等でいようとすると
幸せから遠ざかっていく。

害のある人には毅然とした態度を
とる必要があるし

関わっていきたい人は自分で選んでいい。


『嫌いな人を嫌いと認めたら
好きな人がわかってきたよ』

友人の言葉が、心に響きます。


自分を守るための恋愛ではなく
心が自由になる恋愛がしたいなと
思います。


ami